口田儀台場跡
出雲神話からその名が生まれた手引ケ浦台場公園は、日本海のすばらしい眺望と一体となった史跡公園です。
公園内には本格的な入母屋造の東屋(休憩所)と海岸へ通じる遊歩道が設置されています。ご家族連れでの散策やドライブ中の一休みに、お気軽にご利用下さい。
日本の近代化を彩った大砲2門を復元、設置
幕末の頃、松江藩は外国船備えて海辺の用地に「唐船番」という兵団を置いて監視を行ないました。寛政12(1800)年に出雲の国と石見の国との国境に位置する田儀浦(現在の田儀港)にものこの唐船番が設けられ、文政3(1820)年には「船乗組」という船団も編成されました。
当地では、天然の良港である田儀湾の東の手引ヶ浦の高台と、湾の西にある田儀川河口の2ヶ所に台場(砲台)を築き、それぞれ大砲を3門ずつ配備しました。
復元された大砲は、鳥取県琴浦町の台場を参考に、大砲については下関市立長府博物館所蔵の八十斤加農砲(様式大砲)の模型と、新潟市郷土資料館所蔵の三貫目玉大筒(和式大砲)の模型をもとに複製して設置したものです。
(和式大砲は実物と同じサイズですが、洋式大砲は3/4に縮小して複製しています)
美しい浜は出雲神話の舞台
大国主大神の娘である阿陀加夜努志多伎吉比賣命(あだかやぬしたききひめのみこと)は、父神の言いつけにより多吉里(たきり)に来られ、ここでお住まいになられました。命は賢くやさしい方で、里人の災いを払いのけて幸せをはかり、田畑の実りのよいように守られたため、里人から崇敬されていました。
ある日、命が父神のおめしにより杵築の宮(出雲大社)へ行くために、この浜辺を通りかけられると、海人が命の御出発を惜しんで、にわかに津波を起こして引き止めようとしました。やがて大波が激しく押し寄せて浜辺をふさいだため、命は沖の海神に向かって「私は今、父神のお召しを受けて杵築の宮へ参ろうとここまで来た。早く波を静め、潮を引かせて道を開かせ給え」と言われると、それまで荒れ狂っていた大波もぴたりとやんで、元の美しい白浜にもどりました。
これをご覧になった命は、お供の者たちの手を引いて真一文字に稲佐の浜へと急がれました。そのいわれにより、この浜辺一帯を「手引ヶ浦」と呼ぶようになりました。